こんにちは。小林です。
5月のGW明けに、禅修行(Zen Training)をすべく、Hawaiiに行きました。
※ 尊敬する経営者の方に、禅は経営の心だと誘われ、今回は参加しました。
かの有名なワイキキビーチから車で30分ほど。
同じHONOLULUとは思えないほどの、静かな奥まったところに禅寺はありました。
初心者の体験用のコースで、接心のような過酷さはないものの、
朝5時半起き、6時から座禅、7時から書道、8時から弓道入門・・・ という内容のトレーニングを3泊4日で実施。
座禅の時間は45分で途中、5分ほどの経行をします。
初めて座ったときには、「無」になるどころか、足の痛さでそれどころではない状況でしたが、2回目、3回目と回をこなすと、足も痛くなくなり、心も落ち着き、次第にとても清々しい気分になりました。
禅の心得については、奥が深く、初心者の私が話せるようなものではないので、専門家の方に聞いていただいた方が良いと思いますが、今回のトレーニングに参加して、率直に感じたことを2,3まとめてみたいと思います。
1. 禅は自分の考え方にしっくりくるということ
【大森曹玄著「座禅入門」より引用】
臨済禅の開祖、臨済義玄禅師がよく「赤肉団上に一無位の真人あり、常に汝ら諸人の両門より出入す」といわれたと、その語録『臨済録』にある。赤肉団とは、われわれの肉体のことであり、無位の真人とは、男女とか、貧富とか、老若とかいういっさいの位 - いいかえれば世俗的な位置づけや、尺度などで限定できない真実の人ということであるから、このばあいでいえば肉体の個に対しては全に当たるであろう。つまり、きみたちはきみたちの肉体という個をよく凝視してみたまえ、そこには何ものにも限定されないが全てが具現化しているではないか、ということであろう。このようにして、個がそのままで本来、全であるということを自覚するのが、今津博士のいわゆる禅定の宗教である。
なんだか分かるような、分からないような引用を掲載してしまいましたが、座禅という修行をすることによって、また禅の考え方に触れることによって、ふつうに「自己」だと思う、考えや観念を根こそぎすてて、その上で、自己についてもう一度、感じ直す良い機会になったと思います。
(おそらく、この感想は禅の修行の意図に反する感想になるかもしれませんが・・・
日常生活をする中で、目先の悩みや課題が気になり、生涯とまではいかなくとも、この現状として何を成し遂げるべきか優先順位を誤っていないか、正しい判断をしてこれたか。そんなことを感じていました。
2. 禅と剣道・弓道等の武道にはつながりがあり、その考え方はマネジメントに通じること
自分として、一番印象に残ったのは、「剣道の四戒」です。
驚、懼、疑、惑の四つは剣道において戒とされており、正に真剣勝負で二人が向かい合ったとき、以下の一つでも心に思ってはいけないとするものです。
【驚(おどろく)】
突然の出来事に心が動かされ、一時心身の活動が乱れて正常な判断や適正な処置を誤り茫然自失してなす術のない状態をいう。
【懼(おそれる)】
恐怖心のおこることで、こういう時に心身の活動が渋り進退の自由を失う状態をいう。
【疑(うたがう)】
相手の心や挙動を疑って見定めない心の状態で、自己の意志決定ができず決断がつかないで、体の自由を失い相手の動作に応ずることができない。
【惑(まどう)】
心が疑うことで、心惑うときは、精神昏迷し、敏速な判断も軽快な動作もできない。
これは、マネジメントとして、冷静にかつ素早く判断・決断するのに必要な心得だなと思いました。
3. 感謝の心を忘れないこと
これは基本中の基本のことかと思いますが、初心者の私に対して、その考え方や、方法論を一生懸命説明してくださった講師の皆様に、本当にありがたさを覚えました。
まさか、全く知らなかった禅の考え方を英語で触れるとは思いもよりませんでしたが、非常に良い体験をさせていただきました。このような機会を設けていただいた皆様、さまざまなご指導をいただいた講師の皆様に、この場を借りて、もう一度、お礼申し上げたいと思います。